イポー競馬場 その3 ~イポー競馬場 ペラ・ターフクラブの歴史と現在~ そこに競馬があるから 忍者ブログ
日本国内、海外の競馬場の訪問記です。こんなことしてていいのかなあ。でもやめられない。

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イポー競馬場
イポー競馬場

*イポー競馬場レポートのつづきです。
初めからお読みになる方はイポー競馬場レポートその1からどうぞ。






 どうも。荷桁です。今回もイポー競馬場レポートをつづけてまいりましょう。



 さて、前回のレポートではイポー競馬場がある、イポーの街の歴史についてお話をしましたが、今回はイポー競馬場の歴史についてお話をしていきましょう。他のマレー系の競馬場のレポートでもちょいちょい触れておりますが、イポー競馬場もイギリス統治時代の流れを汲む流れがありますので、そのへんの前提をこのレポートでは押さえておきたいと思います。



 まあ、特に興味がない方は読み飛ばしていただいてもその後の競馬場そのもののレポートは問題なく楽しめるかなと思いますので、そんなノリでお読みいただければOKです。それではまいりましょう。イポー競馬場の歴史でございます...


ペラ・ターフクラブ



 さて、そんなわけで、はじめていこう。



 イポー競馬場の歴史とは言いつつも、タイトルにもあるとおり、このレポートはイポーで競馬を主催しているペラ・ターフクラブ(Perak Turf Club)の歴史と言ってしまっていい。ペラ・ターフクラブはもともとイポーで競馬をしていたわけではないので、ペラ・ターフクラブの歴史=ペラ州における競馬の歴史→最終的にイポー競馬場の歴史になる、というイメージで読み進めていただけるとありがたいぞ。




 今回の記事を書くにあたっては、ネットの海を漂いながら、いくつかの史料や現地の記録にあたってみた。



 まず外せないのが、1908年に出版された『Twentieth Century Impressions of British Malaya』という史料だ。これは当時のイギリス領マラヤの状況を網羅した、いわば「植民地百科事典」のような一次史料で、当時のマレーシアにあったシンガポールやペナン、そしてペラの競馬場の様子も写真入りで詳しく記されている。



 もうひとつ、ペラ・ターフクラブの公式サイトにある「Our History」というページ。ここには、彼らが自らのルーツをどう捉えているかが記されている。




Singapore



 これらに加え、シンガポール競馬の歴史を書く際にも参考にした、Sumiko Tanの『The Winning Connection』など、シンガポール・マレーシア競馬史の定本とされる文献をベースに、マレーシアペラ州における競馬のはじまりから現在までを、それっぽくまとめてご紹介することにしよう。




 ペラ州における競馬の歴史が始まったのは1884年、あるいは1886年のことと言われている。シンガポールの競馬開始(1842年)から遅れること約40年ということになる。前回のレポートでも書いた通り、19世紀中頃のマレーシアのペラ州はスルタンが納めるペラ王国という国だったが、1874年のパンコール条約を機に、イギリスの保護国となったので、そこから考えると約10年後ということになる。最初に競馬場ができたのは当時のペラの錫採掘景気の中心地となっていた「タイピン(Taiping)」という街だった。




 シンガポールの時もそうだったが、言い出しっぺはこれまた例によってイギリス人である。当時の英国駐在官(実質的なペラのトップ)であったサー・フランク・スウェッテナム(Sir Frank Swettenham)が「ここでも競馬やろうぜ」と音頭を取ったのが始まりだ。彼はマレーシアの近代化に多大な影響を与えた人物だが、同時に相当な競馬好きでもあったようだ。








 最初の競馬場は、タイピンのレイクガーデンというところの近く、現在も「Race Course Road」という地名が残る場所に作られたそうだ。当時のタイピンはペラ州の州都。まさに政治と経済の中心地で、イギリス人役人や地元の有力者たちが集う社交の場として競馬場が真っ先に必要とされたわけだ。イギリス人というのは、新しい土地に根を下ろすと、まず家を建て、次にクラブを作り、そして競馬場を整備する……というのが相場だが、まあ、ここペラでもそんな感じであったということになる。この当時の競馬主催団体はペラ・ジムカーナクラブ(Perak Gymkhana Club)を名乗っていたそうだ。




 さて。そんな流れでタイピンで産声を上げたペラ州の競馬だが、時代とともにその拠点を移していくことになる。








 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ペラ州の経済の中心は、タイピンから近隣の「イポー(Ipoh)」へと移り変わっていく。前回のレポートでも述べたが、錫の採掘エリアの中心がさらに内陸にうつり、イポーが「錫の街」として急速に発展したからだ。1913年にはイポーにも「キンタ・ジムカーナクラブ(Kinta Gymkhana Club)」という別の組織ができて競馬を開催。しばらくはタイピン・イポーの2クラブ2場体制となっていたらしい(イポー競馬場の場所は今も変わらず)。その後1934年、ペラ・ターフクラブがイポーに移転・合流する形でイポーを拠点とする新生・ペラ・ターフクラブが発足し、ここからはイポーの現在地においてペラ・ターフクラブが競馬を開催するという流れが固定されて現在に至るイメージだ。



 
 しかし、ペラ・ターフクラブも、日本占領時代(1941年〜1945年)には戦争に巻き込まれることとなる。シンガポールのブキティマ競馬場が食糧難から競馬開催が休止となりフルーツ栽培の農地に変えられたのと同様、マレー半島の競馬場も軍事利用された記録がある。



 ペラ州(イポー)は、日本軍の山下奉文大将(通称マレーの虎)がシンガポール攻略に向けて快進撃を続けていた際の重要拠点だったこともあり、イポー周辺の錫鉱山から接収した重機や、南下政策に必要なガソリン、弾薬などが広大な競馬場敷地に集められ軍需物資の集積所的な感じになっていたほかスタンドは日本軍のペラ州統治の拠点(憲兵隊の監視所や輸送部隊の司令部)として利用されていたらしい。これらは当時の新聞『The Perak Times』や戦後の回顧録などにも散見される記録だ。



 また日本軍が侵攻してきた際、イギリス人の馬主や調教師たちは、自分の愛馬が日本軍に奪われるのを嫌い、また餌が確保できないことを見越して、多くの競走馬を自らの手で安楽死させたという証言も残っているらしい。生き残った馬も、軍事物資を運ぶための荷馬として徴用されることとなり、熱帯の過酷な環境下の行軍などで重い荷物を引かされ、命を落としたという話も、前述の『The Winning Connection』に詳しく記されている。




 シンガポールでは日本占領時に競馬が行われなかったが、イポーにおいては日本軍は当初競馬を禁止したものの、占領が長期化すると、いわゆる前線でなかったこともあり「民心の安定(あるいは娯楽による懐柔)」と「戦費調達」のために、競馬の開催を一部許可することとなった。1943年頃には、ペナンやイポーで「日本軍管理下の競馬」が行われた記録が残っている。ただ、当時の占領下に発行された新聞(Syonan Timesなど)を見てみると、日本軍の記念日に合わせたレースの告知が見つかるのだが、走るのは生き残った数少ない馬や現地種のポニーだったようで、しかも馬券の売り上げは日本軍の懐に入るという、まあ、軍の利権的な、ビミョーな競馬だったんだろうなということが想像できる。



 1945年に終戦をむかえても、競馬場には不発弾はあるわ、放置された軍用車両の残骸があるわで、これらを全部片付けるのに数年を要し、イポーで本格的な競馬が再開できたのは1947年まで遅れたそうな。




イポー競馬場



 そんなわけで再びイギリス領に戻ったマレーシアでペラ・ターフクラブは競馬を再開。1957年のマレーシア独立後、1960年代から70年代にかけて競馬は黄金期を迎える。1971年の新スタンド(このスタンドは今も使われている)の開場式にはペラ州のスルタンも出席。まさに州を挙げた一大社交場として、白人、マレー系、中華系、インド系が入り混じる、多民族国家マレーシアらしい華やかな空間がそこにはあったそうな。




 イポー競馬場はその後もそのまま競馬を開催し続けて現在に至っているが、皆さんすでにご存じのとおり、その前途は洋洋とは言い難い感じだ。



 以前のレポートでも申し上げた通り、マレー半島ではここ数年でシンガポールのクランジ競馬場とマレーシアのペナン競馬場が廃止になってしまった。かつて4場あったMRA(マラヤン・レーシング・アソシエーション)加盟の競馬場は、今やクアラルンプールのセランゴール競馬場と、ここイポー競馬場の2場へと半減していることになる。




KL



 セランゴール競馬場が賞金の増額や国際トータリゼーターシステムへの投資で海外売り上げを伸ばそうと「攻め」の姿勢を見せているのに対し、地方都市であるイポー競馬場のアプローチは少し異なる。ここは競馬の売り上げアップに固執するよりも、クラブが所有する広大な周辺不動産や空きスペースを再開発し、競馬場を市民の憩いの場やレジャー施設として活性化させようとしているようだ。




イポー競馬場



 市街地に位置しながらも、クランジやペナンほど「土地を明け渡せ」という圧力が(今のところ)かかりづらいであろうイポーにおいて、このアプローチは合理的と言える。イポー中心部には突出したレジャー施設も少ないため、競馬場やその敷地内の施設が魅力的な多目的空間として再生されれば、海外売り上げとの二本柱で持続可能な運営となる可能性は大いにあるだろう。



 植民地時代から続くマレーシア競馬の火を消さないよう、イポーにも頑張ってもらいたいところだ。



 というわけでイポー競馬場の歴史を、ざっくりまとめると、

・ペラ州における競馬はタイピンでスウェッテナム卿の号令とともに始まった

・経済の中心がイポーに移るのに合わせて、競馬開催もタイピンからイポーへ一本化された

・戦時中はイポーでもいろいろあった

・1971年に建てられたスタンドは、当時の最先端を行く豪華なもので執筆時でも現役で稼働している

・現在はシンガポールとペナン無き後、セランゴール競馬場と共に植民地時代から続くマレーシア競馬の伝統を細々と、しかし確実に守り続けている


 といったところだろうか。まあ、これを知っていたからどうだというものでもないが、ひとまずこんなところでよろしくお願いいたします。




 というわけで、イポー競馬場の歴史についての予備知識はこのくらいにしておきましょう。次回からは、実際にイポー競馬場に向かうところの話をしていければと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします・・・。




★今回の記事を書くにあたって参考にした主な資料★

Twentieth Century Impressions of British Malaya (1908)

Sumiko Tan, The Winning Connection: 150 Years of Racing in Singapore (2003)

Perak Turf Club Official Website "Our History"

The Straits Times 及び The Syonan Times (Digital Archive)




 


>>イポー競馬場レポートその4へ





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